樋爪氏の時代コース巡り

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(1マップ、2項目別、3概要別)

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3、概要付案内
①『吾妻鑑』に記録された高水寺


木造十一面観音立像(県指定文化財)
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高水寺と走湯権現
『吾妻鏡』によれば、高水寺は陣岡近くにあり、走湯権現(走湯神社)を鎮守社としていた。当時は16坊を擁する志波郡随一の古刹であった。『祐清私記』は、往古はそれ以上の堂宇を並べる一大伽藍であったと伝える。本尊として一丈の観自在菩薩像が祀られていた。現在の走湯神社観音堂には平安時代末期の制作とされる十一面観音立像(県指定文化財)や地蔵菩薩半跏像・大日如来像(ともに町指定文化財)が安置されている。高水寺の存在は、仏教が早い時期に志波地方に伝播し、受容したことを示している。

②『吾妻鑑』に記録された比爪館

比爪館全景
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第二の平泉  比爪館跡は、平泉藤原氏の一門である樋爪氏が北方支配の拠点として造営した城館跡である。比爪館は、樋爪氏が志波郡を中心に北方世界との活発な交易活動を基盤にしながら、産金・産馬などによって蓄積した莫大な富を背景に、平泉と同じように仏教に基づく理想世界の実現を目指して造営された当時の志波郡の政治・行政上の拠点である。比爪館は、世界遺産「平泉」の都市理念が平泉の地以外で展開された数少ない事例であり、「第二の平泉」と呼ぶべき格式と内容を誇っている貴重な歴史遺産といえる。。

③樋爪氏が創建した五郎沼薬師堂

五郎沼薬師神社拝殿
大荘厳寺の鎮守であった薬師堂  薬師神社は、五郎沼北岸に鎮座するかつての薬師堂である。我が国の寺院は、神仏習合が進むなかで寺院守護のためさまざまな神祇が祀られた。薬師堂は薬師如来を本地仏とし、近世初期に盛岡城下に移転した大荘厳寺の鎮守社として盛岡藩の保護を受け、長い歴史と格式を有する神社である。現在は記紀(古事記・日本書紀)にみえる少彦名命(すくなひこなのみこと)を祭神とする。薬師堂は、明治期の一連の神仏判然政策によって薬師神社と名称を変え、地元では「薬師さん」として親しまれている。 

④土地の歴史を語る箱清水板碑

箱清水板碑群
箱清水板碑群  五郎沼の北岸の小高い場所に10 基ほどの石卒塔婆が林立している。板石塔婆あるいは単に板碑と呼ばれる供養碑である。一群の中には年号の入った絵像碑では県内最古の板碑がある。自然災害や戦乱に始終した中世は、誰にとっても先の見えない不安に満ちた時代であった。板碑は死者の供養や自身の極楽往生を願って寺院境内や道路の辻などに造られた。板碑は土地の歴史的年輪といわれる。そこに刻まれたわずかの文字は、地域の歴史や当時を生きた人々の生と死に対する深い思いや願いを無言で伝えてくれる

⑤浄土景観を創った五郎沼

五郎沼
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園池であった五郎沼  五郎沼は12世紀に樋爪氏が比爪館を造営する際に、近くの滝名川の停水地帯を園池として整備した人工の沼と考えられている。現在は沼の一部が埋め立てられ、浄土式庭園としての当時の面影を垣間見ることはできない。しかし、五郎沼薬師神社や箱清水板碑群とともに、樋爪氏の栄華や当時の文化的景観の一部を今に伝えてくれる。春は満開の桜が水面に映え、夏は古代ハスが清浄な大輪の花を咲かせ、冬は白鳥が羽を休める。五郎沼は四季の移ろいを感じさせ、散策や憩いの場として親しまれている親水空間でもある。

⑥里帰りした五郎沼のハス

五郎沼の古代ハス(中尊寺ハス)
五郎沼の古代ハス  五郎沼は、かつては浄水をたたえ、広々とした園池美観を誇った池だったと想定される。極楽浄土の世界を再現する浄土式庭園の園池には、浄土を象徴する蓮の花が植えられる。五郎沼のほとりでは、古代ハスが夏季に美しい大輪の花を咲かせる。このハスは、平泉藤原氏4代泰衡の首桶から発見された種子を発芽させ、株分けしたものである。中尊寺から株分けされた古代のハスは、800余年の時空を超えて五郎沼に里帰りしたことになる。比爪館の栄華と終焉を象徴する古代ロマンにあふれた花である。

⑦夜泣き石と五郎沼経塚

五郎沼板碑(夜泣き石)
夜泣き石と経塚  五郎沼にはその名称の由来とされる伝説のほか、この沼を舞台とした伝承や昔話が残されている。五郎沼の北岸から100mほど南の東土手に大きな供養碑(板碑)がある。この板碑には、水神の怒りを鎮めるため人柱にされた村の娘の供養碑が泣き声をあげるという「夜泣き石」や、土台石として移された石が悔しさのあまり元の場所に戻して欲しいと泣きながら訴える「泣き石」の伝承がある。この夜泣き石の南方には五郎沼経塚が造営されていた。経塚は法華経などの経典を後世に残すことを目的とした古代のタイムカプセルである。

⑧五郎沼観音島にあった島の堂

島の堂山門
嶋の堂観音  嶋の堂は、五郎沼の東岸近くにたたずむ観音堂である。かつて五郎沼観音島にあった観音堂にられていた観音像を本尊とする。この観音像は、が奥州合戦後に奉納したとする伝承、志波郡領主である家長の重臣氏が奉納したとする伝承がある。境内には鎌倉時代末期の2年(1303)の年号が刻まれたが建ち、長い歴史にられた観音堂であることを物語る。かつての樋爪氏の栄華と落日を伝える嶋の堂は霊地として人びとの信仰のとなり、観音信仰の霊場になった。

⑨結界に建つ新山神社

新山神社(奥宮)鳥居
新山神社  新山神社は2か所に神殿を構えている。新山山頂部の奥宮とその麓の村里にある里宮で、稲倉魂命を祭神とする。里宮の新山神社は、奥宮が山上にあることから遥拝所(離れた所から神仏を拝む)として参拝者の便宜のため設けられた。奥宮の新山神社はかつて新山権現と呼ばれ、新山寺を別当とする寺院持ちの社堂であった。新山権現と新山寺は、鎮守社と別当寺の関係である。新山権現社の境内に羽黒堂が祀られていたことから、出羽三山(山形県)の遥拝所として勧請されたと考えられている。

⑩『吾妻鑑』に記録された陣岡

陣岡陣営跡遠景
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土地に刻まれた歴史  陣岡は、『吾妻鏡』に登場する陣営跡である。20mほどの比高で南北に長い独立した丘陵である。源頼朝は奥州合戦の際、敗走する藤原泰衡を追い陣岡蜂杜に一週間間滞在し、厨川柵(盛岡市)に出立した。陣岡は源頼義・義家が本陣を敷いたことが名称の由来となっている。源頼義父子が勧請したと伝わる蜂神社や戦勝の報恩として造営したと伝わる月の輪・日の輪形の中島、藤原泰衡の首を洗ったと伝わる清水など、幾多の合戦に関係する遺跡や虚実をとり交ぜて伝承される遺産が集積した一種の野外博物館といえる。

⑪経典をまもる山屋館経塚

山屋館経塚(復元地)から望む東根山
山屋館経塚  山屋館経塚は、西方に東根山や居久根(屋敷林)に囲まれた散居集落を望める山腹に位置する。集落が点在する紫波扇状地の農村景観は、全国に誇れる田園景観である。経塚の近くには近年確認された山屋館跡があり、近くに山祗神社が鎮座する。周辺の赤沢には平安仏を祀った蓮華寺があった。山屋・赤沢地区は、蓮華寺に関連する複数の宗教施設が存在したと考えられている。このような宗教的空間を背景に、陸中海岸に通じる交通の要衝の地で、結界(聖と俗を分ける境目)の機能が期待されたのだろうか。

⑫全国でも珍しい五大明王像

軍荼利明王(県指定文化財)
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五大明王像  赤沢地区は古くから産金地帯と知られ、音高山を中心に白山権現社が創建され、別当寺である蓮華寺は一大伽藍を構成していたと考えられている。それを裏付けるように赤沢には平安時代末期の平安仏が残されている。密教特有の尊格である明王像4躯(五大明王像)もその一つである。この4躯の像は、かつて赤沢薬師堂に安置されていたが、それを祀る五大堂の存在を示す記録類は伝わっていない。明王像4躯(県指定文化財)は、ほぼ同時代の毘沙門天立像(県指定文化財)とともに赤沢正音寺に祀られている。

⑬北方を守護する毘沙門天

正音寺収蔵庫
赤沢と毘沙門天  県内には北方を守護するという毘沙門天像が北上川流域に多く祀られている。紫波町では赤沢正音寺に安置されている。正音寺の「五大明王像」と同じく、かつて赤沢蓮華寺に祀られていた平安仏である。毘沙門天像が北上川流域に多く祀られている理由は、この流域に住む蝦夷を調伏するためと説明される。そうだろうか。秋田・青森地方ではなぜか少ない。坂上田村麻呂は東北開発に多大な功績を残し、その事績は伝説として語り継がれている。英雄化された田村麻呂を毘沙門天の化身として具現化したものであろう。

⑭結界に建つ赤沢白山神社

白山神社拝殿

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赤沢白山神社  白山神社は220段の階段を昇り切った赤沢音高山の山頂に鎮座する。音高山一帯には白山神社の別当寺の蓮華寺が山岳伽藍を構えていたと考えられているが、正確な寺域は特定されていない。赤沢地区は古くから産金地帯として重視され、樋爪氏の時代以前に創建されていたと考えられる。白山神社は聖なる場所と俗なる場所とを分ける境目である結界として位置づけられ、金山労働者の安全、産金増大や国家鎮護などを祈願する遙拝所としての機能が期待されたと考えられる。薬師堂近くには藤原経清の母の供養碑と伝わる板碑が建つ。

⑮全国に誇る七仏薬師像

修復前の七仏薬師像(県指定文化財)
七仏薬師如来立像  産金地帯であった志和地区はなぜか銅鏡が多く出土する。同じ産金地帯の赤沢地区はなぜか平安仏が多く、その宝庫とされている。赤沢には「五大明王像」や「毘沙門天立像」のほかに全国的に珍しい平安仏が祀られている。赤沢薬師堂には立像の中尊を中心に、小さな脇侍が3躯ずつ左右に並ぶ7つの仏像が祀られている。「七仏薬師像」といわれる薬師如来像である。この七仏薬師像は、7躯の仏像が一組の七仏薬師として伝えられたもので、平安時代末期に造像されたと考えられている。県指定文化財である。

⑯伝承される義経伝説高水寺
義経判官堂鳥居
赤沢の義経伝説  赤沢には義経判官堂や、的場・鐙越・矢島など武芸鍛錬に関連する地名が残っている。源義経が確かな史料に現れるのは、黄瀬川の陣(静岡県清水町)で源頼朝と対面してから自害に至るまでの後半生で、前半生は史料と呼べる記録はなく不明な点が多い。伝承が地元ひいきの解釈によって定説となり、史実が歪められることもあるが、伝承とはいえ無視できない内容もある。赤沢の義経伝説もその一つである。伝承は歴史と無縁ではなく、長く伝えられてきたという意味で重要な歴史資料となる。

⑰新山権現と呼ばれた熊野神社

佐比内熊野神社
の鳥居
熊野神社  佐比内館跡に建つ神社である。所伝では、坂上田村麻呂が佐比内松田山大峰の小丘にあった「御熊様」に伊弉諾命・伊弉冉命の2神を勧請合祀し、後に素戔嗚尊も勧請したという。至徳元年(1384)に大巻館から佐比内館に移転した館主河村秀基が「御熊様」を熊野権現社と改称し、さらに応永3年(1396)、この熊野権現社を佐比内館の南に鎮守として遷座した。慶長10年(1605)に現在地に遷している。古くから志波河村氏や遠野領主八戸氏の保護を受けてきた神社である。

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