樋爪氏の時代巡り

M結界に建つ赤沢白山神社


神社の沿革  社伝によれば、坂上田村麻呂が勧請し、康平年間(1058〜1065)に藤原登任(なりとう)が再興、後に高水寺斯波氏による社殿修復を伝える。盛岡藩の記録では、近世期には白山宮と呼ばれ、「寂静山蓮華寺」を寺山号とし、由緒は不明とする。盛岡藩の修験惣録である自光坊の配下にあり、慈徳院を別当とする本山派に属する修験持ち社堂として分類されている。盛岡藩主南部氏の崇敬が厚く社領が寄進され、東長岡の牛頭天王社(現:八坂神社)と並び称された。現在は伊弉冊命(いざなみのみこと)を祭神とする。



白山信仰とは  福井・加賀・岐阜県にまたがる白山は、その秀麗な山容は神体として仰がれ、山岳信仰の対象とされた。養老元年(717)に修験僧泰澄(たいちょう)は白山に登拝し、奥宮を創建し白山権現(白山妙理権現)を奉祀した。白山権現は白山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神で、十一面観音を本地仏とする。平泉藤原氏は白山神を厚く信奉し、平泉北東の鬼門を守る存在として白山社を勧請している。平安後期に成立した『白山之記』によると、藤原秀衡は白山山頂に金銅仏を寄進している。



平泉藤原氏と白山信仰  地元白山周辺や平泉寺(へいせんじ)には、平泉藤原氏にまつわる記録や伝説が残っている。白山への参拝道の途中にある村では、「村人は秀衡が仏像を運ぶために遣わした武士団である上村十二人衆の末裔」と伝承されている。当時、平泉と都を結ぶルートは、日本海沿岸や太平洋沿岸、内陸を通る道筋があった。平泉藤原氏は源頼朝の影響下にある太平洋沿岸を避け、北陸日本海側や北陸道に大きな影響力をもつ平泉寺を含む白山の宗教勢力と接触を図り、仏像等を寄進しながら日本海沿岸ルートを確保したものと考えられる。



蓮華寺  盛岡藩の記録では、白山宮は十一面観音を本地仏とし、寺山号を「寂静山蓮華寺」と称し、白山宮と蓮華寺は鎮守社と別当の関係にあった。蓮華寺は近世以前に廃寺になっているが、神社境内から一字一石経が発見されている。また、山麓の南側斜面に鎌倉時代末期の板碑10基が建てられている。白山宮や蓮華寺が立地する赤沢地区には、平安時代の七仏薬師像・毘沙門天立像・四躯の明王像が祀られている。これらから音高山一帯には一大山岳伽藍があったとみられ、西部地区の新山権現社・新山寺と比肩される宗教の中心地であった。