斯波氏の時代コース巡り

L 斯波氏の開基を伝える遠山正音寺


正音寺本堂
寺院の沿革  寺伝では、正法寺(奥州市)二世月泉良印禅師の弟子である大応玄徹禅師によって正法寺の末寺として開山された。高水寺斯波氏の開基(大旦那)を伝えているが、元和年間(1615〜24)に記録類を消失して詳細は定かではない。さらに、玄徹禅師は建武政権において陸奥国に下向した北畠顕家の庶子太郎顕元の子であるとする所伝があるが詳しいことはわからない。玄徹禅師は6歳の時に父母と別れ、正法寺二世月泉の弟子となり、文正年中(1466〜67)に正音寺を創建し、文明10年(1478)に没したと伝えられている。            


盛岡城から移されたとされる本堂襖絵
斯波詮教  『続群書類従』に所収の「奥州斯波系図」によれば、斯波詮教は、室町時代中期の高水寺斯波氏の当主とされている。この系図によれば、斯波詮教は、奥州総大将だった足利(斯波)家長(志和尾張弥三郎)のひ孫で、法名に「正音院」と記録されている。また、詮教の父である詮将(あきまさ)の法名は「正源院」と記録されている。また、「源勝寺」を法名とする後裔の存在などから、正音寺は斯波詮教が開基(大旦那)した可能性が高いと考えられている。しかし、生没年が不明なことからその真偽は定かではない。           


正音寺収蔵庫
平安仏を祀る正音寺  正音寺境内にある収蔵庫には平安時代後半の「木造毘沙門天立像」と「明王像4躯」(降三世明王・軍茶利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王像)が安置されている。これらの平安仏は、廃寺になった赤沢蓮華寺の付属寺に祀られていた仏像とされている。これらの平安仏は赤沢薬師堂に祀られていたが、廃仏毀釈の難を避けるために遠山の正音寺に移され、さらに薬師堂の再建と併せながら複雑な経緯をたどりながら今日に至っている。蓮華寺が廃寺となった以降、平安仏がなぜ薬師堂に安置されるようになったかは定かでなない。     



正音寺鐘楼
正音寺の銅鐘  正音寺の山門脇にある鐘楼には、「越前守藤原家綱」の銘が刻まれた梵鐘がある。盛岡城下にあった時鐘の一つ(県指定文化財)は,鋳物師小泉五郎八が鋳造したものと伝えられ、延宝7年(1679)に城下三戸町に設置された。正音寺の梵鐘は、寛永20年(1643)盛岡の法輪院の鐘として作られたものを、明治2年(1869)に同院が廃寺になった際、正音寺が譲り受けたものである。この銅鐘は、「越前守藤原家綱」の銘が刻まれている。盛岡藩鋳物師鈴木家初代(主善堂)が鋳造しており、盛岡城下の時鐘より古いことになる。