斯波氏の時代コース巡り
N 河村氏の保護を受けた熊野神社
熊野神社から望む佐比内の田園
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大峰の丘
熊野神社の元宮の祭祀地は新山である。これは新山大権現から派生した地名と考えられる。ところが、社伝では熊野権現社は新山ではなく、「大峰の丘」に所在していたとする。熊野から吉野に続く山脈は「大峰山」と総称され、那智三峰の主峰である「妙法山」(749m)がある。佐比内の「大峰の丘」のすぐ北に「妙法山」がある。偶然だろうか。佐比内の大峰の地名は、奈良・吉野の大峰修験の影響を受けたのだろうか。熊野神社は、砂金開発のため蝦夷と協調を図るため、早くに熊野神を在地神とともに合祀したと考えられる。
熊野神社拝殿
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河村氏と修験開山
熊野神社は、大巻館から佐比内館に移った河村秀基が熊野権現を深く信奉し、佐比内館の鎮守として保護してきたと伝わる。喜明院は、高水寺斯波氏の時代である応永3年(1396)に熊野権現社が創建されて以来、代々別当を勤めてきた修験道の院坊である。盛岡藩の記録では、藩政時代の熊野神社は「熊野権現社」と呼ばれる修験持ち社堂であったが、由緒は不明とする。『紫波郡史』によれば、熊野神社の元宮である「新山大権現」は、河村喜貞が社殿を改修し、その祭祀は一族松田氏が担っていたとする。
熊野神社拝殿
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遠野領だった佐比内村
藩政時代の紫波町は、三人の領主によって統治されていた。盛岡藩主南部氏、八戸藩主南部氏、遠野領主八戸氏(南部氏)である。領主を異にする統治によって、文化や風土にも地域差がみられ、地域独自の歴史・文化を育む要因になった。八戸藩は盛岡藩の支藩といわれるが、盛岡藩から分離・独立した藩である。遠野領主八戸氏は、1万2000石余の知行高を誇る。独自の裁判権が認められ、独立した大名のように位置づけられていた。佐比内村のうち、下佐比内は盛岡藩に属し、上佐比内は遠野領主の知行地(所領)だった。
熊野神社境内
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八戸弥六郎とは
寛永4年(1627)、盛岡藩主南部利直は、仙台藩と境界を接する遠野地方の警備を強化するため、盛岡藩の大身である八戸直義を八戸根城から遠野へ移した。この転封によって根城南部氏は「遠野南部氏」と呼ばれるようになった。佐比内村は、この措置によって遠野南部氏の知行地となり、遠野街道の要衝として馬継所や代官所が整備された。直義は八戸弥六郎を名乗り、後に直栄と改めた。清心尼と称された祢々は、直栄と母千代子(南部信直の娘)の娘であり、全国でも珍しい女性当主となった
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