五郎沼の歴史・伝説・景観保護

 

 五郎沼の歴史と自然

  五郎沼の歴史

五郎沼は、四季折々の草花が咲き誇り、鳥が羽を休める自然豊かな空間であるとともに、先人が築きあげた歴史文化の営みを気付かせてくれる水辺の空間である。また、地域のランドマークとして、あるいは散策や憩いの場として親しまれている空間でもある。
五郎沼は、近くの滝名川の旧河道の停水地帯を利用して造成された人工の沼と考えられており、12世紀に比爪館を造営する際に整備されたと推測される。かつて五郎沼は、現在の4倍程度の面積がある広大な沼であったが、江戸時代末期に武士によって開田され、半分程度が埋め立てられた。明治5年(1872)には、さらにその半分が埋められた。
五郎沼は、平泉において仏国土(浄土)を空間的に表現する建築・庭園の理念が比爪館において展開された一事例であろう。現在の沼には、往時の浄土庭園としての意匠を垣間見ることはできないが、平泉藤原氏の時代に比爪館を構成した建築・庭園群のなかで、樋爪氏の栄華や文化的景観の一部を今に伝えてくれる沼である。近世初期から盛岡藩の白鳥の捕獲地として整備・管理されてきた歴史をもつ。


五郎沼の名称の由来については、三つの伝承がある。一つ目は、比爪(樋爪)五郎が幼時に遊泳した池であったとする伝承(『奥羽観蹟聞老志』)。二つ目は、比爪五郎がこの地方の領主であったとする伝承(『邦内郷村志』)。三つ目は、五郎沼の付近に比爪五郎の墓があるとする伝承(『旧蹟遺聞』)。三つとも五郎季衡に因んだ伝承であるが、由来を語る同時代の記録は確認されておらず、その真偽は不明といわざるを得ない。
大正14年(1925)に実施した五郎沼の浚渫(しゅんせつ)事業で、沼の底から12世紀の土師器系の土器や栗材の脚柱が検出された。これらは当時、平泉中尊寺の鈴沢の池跡から出土した遺物と同一系統、同一年代と考定されている。この遺物が発見されたことから、五郎沼は都市平泉の庭園の意匠や技術などの影響を受けた沼であると位置づけられている。

 

江戸時代後期の絵図では、五郎沼の北岸に堤体と陸続きの出島風の中島の存在が確認できる。この中島は、人為的に造成されたものと推測され、平泉(柳之御所遺跡)に所在する園(苑)池と共通するものがあると考えられている。この中島には、かつて観音堂があったとの伝承がある。五郎沼の南東には、その本尊とされる千手観音像を安置する嶋の堂が佇んでいる。

 


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   800年の眠りから覚めた大輪

五郎沼には、平成14年(2002)5月28日、中尊寺から株分けされたハスが植栽されている。この種子は、昭和25年(1950)、朝日新聞学術文化事業団による藤原氏四代の遺体学術調査の際、中尊寺に納められた泰衡の首級桶の中から発見された。
発見された種子は、ハス博士といわれた植物学担当の故大賀一郎博士(1883-1965)に託されたが、博士は発芽研究中に他界された。種子は中尊寺に一旦返還された。その後、中尊寺では改めて種子の発芽を大賀博士門下の長島時子氏(現:恵泉女学園短期大学名誉教授)に依頼した。平成5年(1993)に発芽に成功し、同10年(1998)に開花した。中尊寺ではこのハスを「中尊寺ハス」と命名した。
なぜ、中尊寺ハスが五郎沼の蓮池に株分けされたのだろうか。


文治3年(1187)、藤原秀衡は死に臨み、平泉藤原氏四代泰衡に源義経を主君とし仕えるよう遺言する。しかし、泰衡は義経を高館に攻め、自害に追い込んだ。源頼朝は、義経をかくまったことを口実に平泉藤原氏討伐の兵を挙げた。
文治5年(1189)、頼朝の進軍に対し敗北の報を受けた泰衡は、平泉館に火を放ち、蝦夷島を目指して逃亡したが、家臣河田次郎の謀反によって斬首される。泰衡の首は、陣を敷いていた陣丘蜂社に届けられた。頼朝による首実検の後、長さ8寸の鉄釘を打ち付けられたことが鎌倉時代の歴史書である『吾妻鑑』に記録されている。
泰衡の首は、黒漆塗りの首級桶に納められ、中尊寺金色堂に納められた。その首級桶から発見されたのが、「中尊寺」ハスと命名された蓮の種子である。
同年9月10日、志波郡陣岡の蜂社に逗留していた源頼朝の宿に、中尊寺経蔵別当大法師心蓮らが謁見し、経蔵や農民の保護を嘆願している。泰衡の首の処遇も併せて懇願したと推測される。近親者の手によって平泉に移されたのだろうか。
このハスの種子は、もともと五郎沼に咲いていたハスの花であったと伝承されている。だれが蓮の花を首級桶に手向けたのか知る由もない。


 

 

 

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 五郎沼経塚  
五郎沼の南東部の小高い丘に「五郎沼経塚」の標柱が建っている。この経塚(きょうづか)は、別な場所に造営されていたとされるが、元の場所は定かではない。五郎沼の南東端から約300m離れた丘陵上にあったと推測されている。
そもそも、経塚とは何だろうか。タイムカプセルは、卒業式や企業の記念行事などで埋設されることが多い。日本万国博覧会の年に大阪城公園に埋められたタイムカプセルは、5000年後の6970年に開封されることになっている。ところが、平安時代の人々は、未来の人々のために、56億7千万年後に開封される経典をタイムカプセルにして地下に埋めた。その埋めた場所が経塚と呼ばれる。 
経塚とは、釈迦の入滅後、56 億7千万年後に弥勒菩薩が下生(げしょう)してこの世を救済するという遥かな未来のために、紙に写した経典を銅製や陶製などの経筒や経箱に入れ、さらに壺などの外容器に入れて地面に埋め、盛土をした塚である。経典を埋納した背景には、末法思想が深く関係している。

 

五郎沼経塚出土珠洲壷

五郎沼経塚は、享保4年(1719)の仙台藩の地誌によれば、「蛇蝎堆」(だかつつか)と記録されている。江戸時代において、地元では蛇塚(蛇の塚)と俗称されていたらしい。この蛇塚は五郎沼を舞台にした「お菊の水」という昔話の原点だろうか。
かつてこの経塚は、後期古墳と考えられていた。昭和9年(1934)、「恩賜の郷倉」(備蓄用倉庫)を建設する際に、建設予定地から経筒などが発見されたことから経塚と位置付けられている。当時の記録では、中央には経瓶を据え、素焼と青銅の二重経筒に経文が納めてあり、経瓶の蓋に魔除の短刀があったという。この経塚は、この地方では珍しい青銅製の経筒を使用しているほか、当時の埋納状況や埋納作法を伝える貴重な文化財といえる。
経塚から発見された遺物は、近くの小学校に保管されていたが、経筒・経文が所在不明となっている。経筒外容器である珠洲壺は、素焼きの完形品であり、近くの赤石小学校に保管されている。

 


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  夜泣き石の伝説

五郎沼には、その名称の由来とされる樋爪五郎季衡に関する各種伝承のほか、この沼を舞台とした伝説や昔話が残されている。「夜泣き石」という伝承もその一つである。
我が国では、古くから山や森、岩などを神霊が宿る場、神が降臨する場として祀ってきた。巨大な岩を御神体として祀っている花巻市の丹内山神社もその一つである。


五郎沼東岸に、「夜泣き石」と呼ばれる供養碑がある。五郎沼は人為的に造成された沼であり、浸食や豪雨によってたびたび決壊することがあった。「夜泣き石」は、五郎沼の土手の決壊を食い止めるために、人柱にされた女性の泣き声が聞こえてくるという人身御供の悲しい伝説である。
五郎沼の土手がしばしば決壊し、地元の農民は苦しめられていた。水神の怒りを鎮めるため、村では人柱を立てることにした。人柱として選ばれたのは、近くに住む農家の娘であった。この娘が人柱として土手に生き埋めにされたという。
娘が埋められた土手の上には、娘の霊を慰めるために巨大な石が供養碑として建てられ
た。その後、土手の決壊はなくなり、尊い命を犠牲にして築かれた土手は満々と水をたたえていた。ところが、夜に供養石の近くを通ると、不思議なことに「しくしく」という悲しげな娘の泣き声が聞こえてくるようになった。この鳴き声が繰り返されるようになると、いつしか地元の人々は「夜泣き石」と呼ぶようになった。大正14年(1925)に浚渫事業が行われた際、夜泣き石は現在地に移設された。
遠野には、武蔵坊弁慶にまつわる「泣石」伝説が伝えられている。武蔵坊弁慶が支石墓(ドルメン)を作る際、笠石を乗せられた下の石が、自分は位の高い石なのに、一生永代他の大石の下になるのは残念と言って、一夜中泣き明かしたという内容である。


この遠野の「泣石」と同じような昔話が五郎沼にもある。遠野出身の民俗学者佐々木喜善(1886-1933)の著作に採録されている。
「村人が南日詰蔭沼の地に金毘羅供養塔を建立する際に、五郎沼開削の際に土中から掘り出された古碑をその土台石にした。当時、陣ケ岡という著名な相撲取りがその石塔の前を通ったところ、大入道が現れて相撲取りを取って投げつけた。次の夜もその石塔の前を通ると、またもや大入道に取って投げられた。相撲取りは、巫女にこの話を聞き合わせると、「俺は古より仏の供養として建てられたが、久しく地中に埋められていた。今度は金毘羅の台石にされた。それが残念で堪らないから、どうか元の場所に戻して欲しい(佐々木喜善「鳥虫木石傳」『遠野の昔話』宝文館出版)。それから、現在の場所に移された。
この昔話に登場する古碑が、五郎沼の古碑であり、「夜泣き石の伝説」の供養塔と考えられている。

 


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  五郎沼の水辺景観    
五郎沼は、近くの滝名川河畔(志和)、志賀理和気神社(赤石神社)、城山公園(高水寺城跡)とともに桜の名所として知られている。五郎沼の満開の桜は、朝一番の風がなく水面が凪(な)いだ時に大自然の水面鏡となって水面に美しく浮かび上がる。隠れた人気のスポットになっている。夏には中尊寺から株分けされたハス(中尊寺ハス)が美しい大輪の花を咲かせる。
五郎沼は、ハクチョウやオナガカモなどの渡り鳥や野鳥の飛来地として知られており、生物の生息域を拡げ、つなぐ貴重な水場となっている。自生する水辺植物、野草や昆虫など、動植物の生息・生育・繁殖環境の多様性を体感できる水辺の空間である。また、季節の草花や豊かな自然と触れ合える地域の憩いの場、親子や幅広い年代が季節ごとに散策やイベントを楽しめる場でもあり、地域のランドマークとして親しまれている。
五郎沼は、自然に対する興味や好奇心を育くみ、自然の大切さ、生きものの大切さを学ぶ自然観察の場として多面的に利用されている。この五郎沼を素材にした「散策講座」や「環境講座」など、五郎沼の魅力を活かした多様な取組が展開されている。

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  文化的景観を守る取組

五郎沼の周辺は、古くから親水機能を持ち合わせている空間として大荘厳寺、薬師神社、嶋の堂などの寺社が建立され、水辺と人の営みが調和した文化的景観を体感させてくれる数少ない沼である。五郎沼地区には、地域の歴史文化遺産をその周辺環境まで含めて一体的に保存・活用するための住民組織がある。
この住民組織である「五郎沼の桜を守る会」は、歴史文化遺産がもつ本質的な価値やその性質を踏まえ、地域の歴史文化に対する理解や関心、興味を高めながら、歴史や風土に培われた五郎沼を地域資源として捉え、堤体の保全整備、桜並木の保存管理などの事業や取組を通じて、地域の魅力の増進、地域の活性化に資することを目的に、行政分野との連携を図るための契機とすることを目標にしている。