斯波氏の時代コース巡り

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(1マップ、2項目別、3概要別)

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3、概要付案内
① 斯波氏の拠点・高水寺城
 高水寺城跡の桜
高水寺城 高水寺城は、北上川右岸の丘陵(城山)とその尾根に位置する中世の平山城で、名称は『吾(あ)妻(ずま)鏡(かがみ)』に記載の高水寺に由来する。高水寺城は志波郡を統治した高水寺斯(し)波(ば)氏(し)の政治・行政・軍事の拠点として重要な機能を果たした城館である。城山の西に連なる広い城域や多くの屋敷跡は県内では最大級であり、足利氏一門という権威と家格を象徴している。丘陵最頂部の本丸から岩手山・早池峰山・姫神山や田園都市を遠望できる。春には約2000本もの桜が咲き誇り、城下から望む高水寺城跡は、城山というより「桜山」と呼ぶにふさわしいほど桜色に染まる。

② 城郭跡に建つ勝源院
 勝源院の山門
楼門を構える勝源院 勝源院は、高水寺城跡に境内を構える曹洞宗の寺院で、釈迦如来を本尊とする。見上げるばかりの巨大な山門は、二階部分に跳高欄を備えた楼門(一階に屋根を持たない二階建の門)で、堂々とした造りである。屋根は入母屋造桟瓦葺きである。二階には十六羅漢が安置されている。本堂裏には国指定天然記念物の「逆さガシワ」と呼ばれる巨木が四方に枝を広げる。源義頼義・義家父子が前九年合戦の戦没者の霊を弔うためにカシワを植え一庵を創ったと地元では伝えているが、樹齢は300年余りと推定されている。

③ 日詰町発祥の地に建つ来迎寺

来迎寺本堂
大迫にあった来迎寺  来迎寺は高水寺城跡の南方の旧習町に位置する浄土宗の寺院である。本堂は入母屋造で美しい曲線の反り屋根と唐破風の玄関をもつ。寺伝では、文明2年(1470)に稗貫氏家臣で亀ケ森館(花巻市)館主の八木沢外記が陸奥国石城専称寺(いわき市)から善廓和尚を招き稗貫郡大迫に開基したという。八木沢氏が天文9年(1540)頃に没落したため、志波郡佐比内村、次いで桜町村に移転、江戸時代前期の寛永12年(1635)、桜屋阿部善四郎らの誘致によって現在地へ移転したと伝えるが、それ以前の可能性も考えられる。

④ 赤石大明神と呼ばれた志賀利和気神社
志賀理和気神社拝殿
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志賀理和気神社  建国の神話には多くの海の神や川の神、地主神が登場するが、志賀理和気神社の祭神がどのような地主神であったか不明のままである。江戸時代の民俗学者菅江真澄は、赤石神社について次のように記録している。「祠を北上の河の崖近く、ひんがし(東)にそむけて立るは、此のみな底(水底)に夜毎夜毎に光る石あるをとりて、神とはまつ(祀)りしとなん。庵よりほうし(法師)たち出て語る」(『けふのせば布』)。光る石が赤石だろうか。赤石は神社の名となり、村の名となり、小学校の名称にもなっている。


⑤ 荒山合戦を伝える覚王寺と大日堂

大日如来坐像
覚王寺と大日堂  覚王寺と大日堂は、国道4号線の日詰駅入口交差点近くに位置する。国道によって東西に分断されている。比爪館跡の周辺には、東ノ坊・下東ノ坊・中ノ坊・大日坊などの地名や屋号があり、大荘厳寺などに附属した坊舎に由来すると考えられている。覚王寺の前身もその一つであろう。寺伝によれば、平泉藤原氏の一門樋爪氏が城館に薬師如来と五智如来を祀ったとされ、その一つである大日如来像(中尊か)が戦禍を逃れ、高水寺斯波氏・南部氏の手に渡った。その後、覚王寺の本尊として納められたとするが、その来歴は不明である。
⑥ 樋爪氏の時代と重なる北条館跡

北条館跡発掘現場
北条館跡  北日詰城内に存在した中世の城館で、北上川西岸の河岸段丘上に北上川の支流の平沢川に並行するように立地する。周辺には比爪館跡・南日詰大銀遺跡、北日詰城内遺跡など平泉藤原氏時代の遺跡がある。かつての修験院坊円学院(覚王寺)が近くに建つ。この遺跡は、これまでの出土遺物や遺構から12世紀代の遺跡と中世の城館遺跡(16世紀前後か)であったことが判明している。県内では12世紀に属する遺構・遺物が少ないことから、館跡の遺構や遺物の検出は貴重な情報を与えてくれる。平泉とほぼ同時期に整備された可能性がある。

板碑に込められた極楽浄土への祈り

箱清水板碑群
霊場と板碑群  箱清水板碑群は、かつてが建立されていた寺域内に造立された。板碑は中世に作られた石製の供養碑で、「石卒塔婆」とも呼ばれる。(紫波町長岡)の3年(1259)の供養碑には「石」の文言が確認できるが、関東地方の供養碑の石材が板状であることから、近世中期以降、「板碑」と呼ぶのが一般化した。県内では葛西領だった県南や北上川流域に多い。板碑や経塚は、霊場といわれる聖地やその霊場が成立するための寺院や神社の周辺に造立されることが多い。紫波町では古代の寺院近くなどで多くみられる。

⑧ 鎌倉末期の創建を伝える島の堂広泉寺

嶋の堂
嶋の堂  嶋の堂は、五郎沼観音島にあった観音堂の千手観音像を本尊とする。嶋の堂の由来については、樋爪俊衡が一族郎党の供養のため廃墟後の比爪館の一部(五郎沼観音島か)に堂宇を建立し、持仏の千手観音像を奉納したとする伝承がある。他方、高水寺斯波氏の重臣である簗田氏が奉納したとする所伝もある。嶋の堂境内には鎌倉時代末期の乾元2年(1303)の年号が刻まれた板碑が建つ。高水寺斯波氏は建武の新政を機に志波郡に定着すると考えられているが、この「乾元二年碑」は嶋の堂が鎌倉時代末期には創建されていたことを示す。      

⑨ 曹洞宗の古刹・平沢広沢寺

広沢寺遠景
広沢寺  寺院の多くは城下の周縁や高台に立地する傾向がある。平沢広沢寺は、平沢の穀倉地帯に境内を構える寺院である。かつて永平寺、総持寺とならぶ曹洞宗第三の本寺とされた正法寺(奥州市)の末寺として開山された。広沢寺は中世高水寺斯波氏の時代に創建された寺院の一つで、長い歴史と正法寺の末寺という格式を誇る。創建以来、たびたび立地場所を変えながらもその歴史と格式を維持してきた。その開山には高水寺斯波氏の関与が想定され、平沢村の知行主簗田氏や近郷農民の熱心な信仰が寺院の運営を支えていたと考えられる。      

⑩ 斯波氏の菩提寺・源勝寺

源勝寺跡
源勝寺  土舘源勝寺は、高水寺斯波氏の時代には志和土舘村に伽藍を構える志波郡内でも屈指の有力寺院であった。高水寺斯波氏の滅亡後の天正19年(1591)に三戸南部氏の信直から寺領を安堵されている。高水寺斯波氏の菩提寺であった土舘源勝寺は、重要な寺院として位置づけられ、慶長年間(1596~1615)に盛岡城下に移転した。城下に移転した盛岡源勝寺には、県内最古といわれる銅像観音菩薩立像(国指定重要文化財)が安置されている。源勝寺は高水寺斯波氏に関係が深い領内寺院としてその名称が古記録に登場する数少ない寺院であるが、詳細は不明である。            

⑪ 牛頭天王と呼ばれた長岡八坂神社

八坂神社
八坂神社  長岡の八坂神社は、紫波町では素戔嗚尊を祭神とする数少ない神社の一つである。所伝では坂上田村麻呂が勧請したとする。累代の高水寺斯波氏が厚く尊崇したとするが、貞享年間(1684~88)に野火のため社記などを焼失して詳細は不明である。盛岡藩の記録では、八坂神社は藩政時代に牛頭天王・朝日森神社と呼ばれ、別当を大学院とする修験持ちの社堂で由緒は不明とする。歴代の盛岡藩主に厚く尊崇され、社領寄進や社殿普請の保護を受け、東部地域では赤沢の白山権現(白山神社)と並び称された。 

⑫ 一揆の舞台となった長岡館
長岡館跡案内標柱
長岡館跡  長岡館跡は、北上川東岸の丘陵「館山」に位置する。館跡の南西には北上川をはさんで高水寺斯波氏の本拠であった高水寺城跡を目にすることができる。館跡の南方には志波河村氏の本拠とされた大巻館跡が位置する。戦国期の長岡氏は高水寺斯波氏が信頼する家臣の一人で、家臣の中では屈指の大身であったらしい。天正16年(1588)、南部信直によって高水寺城が攻略された際に長岡館が古記録に登場するが、その事跡については記録がなく、その出自自体についても未だ解明されていない部分がある。 

斯波氏の開基を伝える遠山正音寺

正音寺山門と鐘楼
正音寺  遠山の正音寺は、高水寺城斯波氏の開基を伝える志波郡内でも長い歴史を持つ曹洞宗の寺院である。寺伝では、文正元年(1466)に正法寺(奥州市)の末寺として開山したという。境内にあるお堂には、平安時代後半の木造毘沙門天立像と明王像四体が祀られている。これらの平安仏は廃寺になった赤沢蓮華寺の付属寺に祀られていた仏像と考えられており、廃仏毀釈を免れるため赤沢薬師堂から正音寺に移された。山門脇の鐘楼にある銅鐘は、盛岡藩鋳物師鈴木家初代が鋳造した梵鐘で、鐘の音は今でものどかな山里に時を告げる。        

⑭ 河村氏の城館・佐比内館跡

佐比内館跡案内標柱
佐比内館跡  中世斯波氏の時代には、平地に構えられた方形の居館のほか、河川近くの段丘上や丘陵に構えられた城館が多く築かれた。佐比内館は、佐比内川に中沢川が合流する右岸の丘陵に築城され、遠野街道を望める交通の要衝に位置する。城館跡の頂部には熊野神社が建立されている。『邦内郷村志』によれば、館主は志波郡北上川東部を領知した河村秀清の後裔といわれ、至徳元年(1384)に河村秀定の孫・秀基の代に大巻館から移って来たと伝わる。天正16年(1588)に高水寺斯波氏が没落するまでの200年余りの間、志波河村氏の居館となった。  

⑮ 河村氏の保護を受けた熊野神社

熊野神社鳥居
お熊様を祀った熊野神社  熊野神社は、県道佐比内彦部線の沿道近くの神田地区に位置し、境内から佐比内地区の田園景観が望める。社伝は、坂上田村麻呂が地元で祀っている「御熊様」に伊弉諾命・伊弉冉命の2神や素戔嗚尊を合祀勧請したと伝える。かつて熊野神社の元宮は、「新山大権現」と呼ばれ、現在も近くに祀られている。大巻館から佐比内館に居館を移した領主河村氏が「御熊様」を「熊野権現社」と改め、社殿を整備した。「御熊様」はもともと熊野権現を勧請した祠であり、佐比内館の鎮守として近くに遷座させたと考えられる。      

⑯ 浄土真宗を布教した是信

是心(信)上人廟所碑
是信の墓所  是信は、鎌倉時代初期にいち早く和賀郡万塩(花巻市)で浄土真宗を巡錫(高僧の遊化布教)した僧である。古記録等によれば、是信は寛喜3年(1231)、布教の拠点として彦部村に本誓寺を創建し、陸奥・出羽地方に浄土真宗を巡錫したとする。是信が創建した本誓寺が建つ彦部村は、奥羽地方における浄土真宗の聖地となり、諸国の巡礼者の跡が絶えなかったと伝わる。彦部の墓山と呼ばれる石ヶ森山の「是信房墓所」は、是信の廟所である。町指定史跡になっている。                 

⑰ 河村氏の拠点・大巻館跡

大巻館跡遠景
大巻館跡  「藤家河村氏由緒書」によれば、河村秀清は奥州合戦(1189)の論功行賞で源頼朝から志波郡の北上川東部を給与され、大巻に城館を構えたと伝える。後年、秀清の一族・後裔とされる河村党が岩手・志波郡の北上川東部に勢力を広げ所領の経営に当たっている。大巻館は館山(標高168m)と呼ばれる丘陵に築かれた山城で河村館または館平とも呼ばれた。北上川西部は北朝(武家方)の高水寺斯波氏が支配していたことから、南北朝時代になると南朝(公家方)の志波河村氏と北朝の高水寺斯波氏は、北上川を挟んで対峙することとなる。                        


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